京都ずきには言わずと知れた有名な本屋・恵文社一乗寺店

2 二人し居れば 「恵文社」

わたしの住んでいるマンションは、左京区一乗寺というところにある。
 
一乗寺といえば、最初に思い浮かぶのは、ラーメン。超濃厚スープで有名な「極鶏」や、ボリューム満点の「夢を語れ」など、行列のできる店が数多く立ち並ぶ、西のラーメン激戦区。
だけどその一方で、おしゃれなカフェや雑貨屋がひっそりと存在する、京都市の中でも、小粋な場所。これはもしかしたら、ここに住んでいる人しか、知らないことなのかも。
 
急遽、間崎教授の講義が休講になった。金曜二限の、「日本古典講読基礎論」。一限目は元々講義を取っていないため、午前中が丸々あいたことになる。この、ぽっかりあいた時間をどう埋めようか。寝てばかりでは、もったいない。そうだ、せっかくならば、少し近くを散策してみよう。そう思い立って、部屋の隅に置きっ放しだった段ボールを開いた。
 
奥底から取り出したのは、入学してから、忙しさでなかなか使うことができなかった、わたしのカメラ。せっかく京都に来たのだから、写真を撮らなければ、もったいないわ。
 
本日はお日柄もよく、ふと見上げれば、ラムネ色の空がどこまでも続く。桜は散ってしまったけれど、まだまだ春は終わらない。生まれ変わったようなこの、空。これは確かに、春の色だわ。肩まで伸びた黒髪を揺らす風は、琵琶湖疏水からやってきたようにみずみずしい。耳を済ませば、そばを走る叡山電車が、ガタンコトンと、祭囃子のような音を奏でる。心に余裕がなければ気づけない。ありふれた日常がこんなにも、楽しさに満ち溢れていること!
 
曼殊院通を西に入ると、左手に、レンガ造りのレトロな建物が見えてきた。「けいぶん社」という丸文字で描かれた看板。きちんと並べられた小さな椅子。ちょこん、と、かわいらしく添えられた草木。
 
ここ、恵文社一乗寺店は、京都ずきには言わずと知れた有名な本屋だ。おしゃれな外観だけでも目を引くものがあるけれど、それだけでなく、取り扱っている書物が少し特殊で、おもしろいから。
 
普通の本屋なら流行の本、売れる本を置くのが普通なのだけれど、ここでは大型書店の物置に入っていそうな本、つまりニッチな書物がたくさん揃っている。併設されているギャラリー「アンフェール」では、個性的な文具が置かれているほか、さまざまな個展が開催されているし、「生活館」と呼ばれるフロアでは、衣食住にまつわる書籍と、生活雑貨まで置かれているのだ。
 
マンションから徒歩5分という場所にあるため、忙しさに追われた日々の中でも、買い物ついでに立ち寄ることが何度かあった。何を買うわけでもないけれど、なんだかよく分からない写真集や、米粒ほどの小さな黒板消しを見て、忘れかけていた子供心をくすぐられるのが、心地よい。この日も、せっかくならちょっと寄っていこうかしら、と、恵文社の扉を開けたのである。
 
 
 
 
 
通い慣れた、なじみの本屋。立ち寄ったのも、ただの気まぐれ。それなのにまさか――あんなことに、なるなんて。
 
いつものように、ぱらぱらと写真集をめくっていると、ふっと、視界に影が落ちた。後ろから誰かがやってきて、同じ棚から、わたしと同じ写真集を取り出す。ちらり、と何気なく隣を見たら、心臓が、鞠のように跳ねた。
 
眼鏡の隙間から見える、どことなく憂いを帯びた、黒い瞳。少し茶色がかった、やわらかそうな髪。そこにいたのは、いつも遠くから見ているだけの、教授。――間崎、教授だ。
 
一体、なぜ、こんな場所にいるのかしら。休講になったということは、てっきり、他の用事ができたと思っていたのに。あっけにとられて、その横顔を見つめるけれど、教授が気づく気配はない。今手にした写真集を、ぱらりぱらりと、わたしと同じように眺めている。
 
どうしよう、かしら。適切な言葉を探す前に、口が開いてしまったわ。呼吸音だけ聞こえるのが恥ずかしくて、慌てて、唇をきゅっと結ぶ。茂庵で出会ったあと、何度も、話しかけようとしたの。でも、講義が終わったら、生徒なんて見向きもしないで、風のように教室を出てしまうものだから、結局まだ、何も伝えられていないの。
 
「……間崎、教授」
 
こうして、直接名前を呼ぶのも、これが初めて。だから、声が少し、震えてしまった。絶対に壊してはいけないガラス細工を、触れる時のような。緊張が小さな胸を支配して、なぜだか、怯えてしまったの。立場が上の人に話しかけるのって、やっぱり、いくつになっても、おそろしい。
 
教授は、写真集から顔を上げ、黒い真珠のような瞳でわたしを捉えた。茂庵で出会った時のように、表情を変えることもなく、ああ、ともうん、とも言わず。まるで、わたしを無機物だと思っているような、そんな、興味のなさそうな顔をして、すぐにまた、視線を戻す。
 
「サボりですか」
 
「サボってるのは教授でしょう」
 
慌てて言い返すと、教授はおかしそうにふふっと笑った。なぁに、その、さりげない笑みは。今の今まで、わたしをそっけない目で見ていたくせに。角ばった空気が、途端に、ふんわりと、丸っこくなる。
 
「あの……先日は、ありがとうございました」
 
茂庵にて、アイスティーをご馳走になったお礼を言うと、教授は「何のことでしょう」とすっとぼけた声を出した。そうやって、忘れたふりをするのが、大人の余裕というやつかしら。男の人にしては細く長い指が、風の仕業を装うように、はらりとページをめくっていく。それ以上何か言うこともはばかられて、わたしも再び写真集を眺めることにした。
 
ああ、どうして。気まぐれに立ち寄っただけなのに、出会ってしまったのだろう。一度目は向き合って。そして今は、肩を並べて。
 
講義以外で、同じ時間を共有することになるなんて、思ってもいなかったわ。こんなに近かったら、呼吸をする音、とか、心臓の音、とか、全部、筒抜けなんじゃないかしら。そんな、どうでもいい考えが頭の中を支配して、見ているはずの写真集は、なんだか全部同じ景色に見える。別に特別な関係ではないし、特別な感情を抱いているわけでもないけれど。「生徒A」であるわたしが、こういう特殊な空間で肩を並べていたら、そりゃあ、緊張だってする。だって、お互い顔は知っているけれど、話すのはこれが初めてなわけだし。
 
まったく内容が入ってこない写真集を棚に戻すと、いつからだろう、教授が、じぃっとわたしを見ていることに気がついた。――いいえ、わたし、ではない。わたしの首にぶら下がっているカメラを、興味深そうに見つめている。
 
「これは、えっと、カメラです」
 
「そのくらい、見れば分かります。あなたは写真を撮るんですか」
 
「はい。小学生の頃から、父の影響で……」
 
わたしはしどろもどろになって答えた。まさか、こんなことを聞かれるなんて。なんだか恥ずかしくって、目を見ていられない。それなのに教授は、なぜだか質問をやめてくれない。
 
「そうですか。……どんな写真を?」
 
「風景が多いです。人はあまり撮りません。せっかく京都に越してきたので、これからは神社やお寺などを撮ろうかと」
 
「それはいいですね」
 
静けさに満ちた店内で、ないしょ話をするように、声を潜めて話す。茂庵で出会った時は、言葉を交わすどころか、目を合わすことだって、しなかったのに。いつもだって、そう。教授は壇上で講義をし、わたしは、少し離れた場所でそれを聞いている。そう、それだけ。いつも、たった、それだけなのに。
 
「学生時代は、よく詩仙堂に行ったものです。今日は久しぶりに、金福寺に行こうと思っていてね。ついでにここに寄ったんですよ」
 
「……詩仙堂? 金福寺?」
 
なじみのない単語に、思わず顔を上げた。どこかしら、と首を傾げると、それまで穏やかだった教授の表情が一変した。信じられないというように目を見開いて、わたしの呆けた顔をまじまじと見つめる。
 
「……御坂さん、住まいはこの辺?」
 
「はい、すぐそこのマンションです」
 
「京都に来てどのくらい?」
 
「もうすぐ2ヶ月になります」
 
「……ずいぶん熱心に私の講義を聞いていると思っていたが、他にすることがなかったからか」
 
講義中の穏やかな物言いとはまったく違う、棘のある声だった。意味が分からなかったけれど、なんとなく、ばかにされているんだろうなと思った。教授はすっかり興味を失ったように、手元の写真集に視線を戻した。
 
「せっかく京都にいるのだから、いろいろなところを巡りなさい。でないとカメラがかわいそうだ」
 
「……教授は、カメラがおすきなんですか」
 
「なぜ」
 
「写真集をご覧になっているから」
 
「……カメラは、苦手だ。設定とか、構図を考えるのが面倒でね。大学生の頃挑戦したけれど、一瞬でやめたんです」
 
「難しく考えているから撮れないんですよ、きっと」
 
言い返してやると、教授は機嫌を損ねたように、じろりとわたしを睨んだ。
 
――おや、なんだか、何だろう。
 
この人、本当に間崎教授なのかしら。まるで欠点を言い当てられた子供のような、そんな表情を、する人だったのかしら。そうふしぎに思って、すぐに納得した。わたしはこの人の、表面的な部分しか知らないのだ。講義中に見せる真剣な瞳とか、上品な微笑みとか、そういう、一部分しか、知らなかったのだ。
 
「では、あなたはさぞかしすばらしい写真を撮るんだろうね」
 
「そのくらい、お安い御用です」
 
「金福寺も知らないのに?」
 
「じゃあ連れていってくださいよ」
 
売り言葉に買い言葉、半ば意地になってそう言ったら、教授は渋い顔をして、「いいだろう」とうなずいた。
 
「その代わり、最高の写真を見せてみなさい」
 
こうしてわたしたちは、金福寺へ向かうことになったのである。
 
 
 
 
 
『御坂さん』
 
先ほど、確かに教授はそう呼んだ。「生徒A」であるわたしの名を。
 
(名前を、覚えてくれていたのだなぁ)
 
 

店名 恵文社一乗寺店
住所 京都市左京区一乗寺払殿町10
アクセス 叡山電鉄一乗寺駅、京都市営バス高野バス停・一乗寺下り松バス停が最寄り。
http://www.keibunsha-store.com/access
TEL 075-711-5919
営業時間 10:00~21:00
定休日 年中無休(元日を除く)
URL http://www.keibunsha-store.com
参考 最新の情報はHP等でご確認ください。

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