4−10 君を置きて「葵」

就職先が決まりました。だから、お祝いしてください。
 
図々しくメッセージを送ると、間崎教授はすぐに了承してくれた。川床料理でも食べにいきましょうか。その一文を読んだ瞬間、雲間から月が顔を出したように、心にやわらかな光が差した。
 
教授が選んでくれたのは、先斗町にある「葵」という店だった。8月の夜は蒸し暑く、太陽の名残がいつまでも空に染み込んで街を眠らせない。7時を過ぎてもテラス席から見える風景は明るく、鴨川のほとりには人々が等間隔で座り、誰かがギターをかき鳴らす音が、お祭りのように響いていた。
 
1回生の時、貴船神社の近くにある真々庵で、母と川床料理を食べたことがある。今日と同じように溶けてしまいそうな夏の日で、川のせせらぎに耳をすませながら食べる料理が格別だったのを覚えている。あの頃は、教授と川床で食事をする日が来るなんて、想像もしていなかった。
 
髪を切ったわたしを見て、教授は一瞬驚いたような顔をし、それから「すっきりしたね」と言った。少し懐かしいね、とも。教授は変わりませんね。わたしは返した。どうか、変わらないでくださいね。
 
「就職活動、おつかれさま」
 
「ありがとうございます」
 
ビールで乾杯した瞬間、母と行った川床が、また少し遠のいた。お酒が飲めなかったあの頃、わたしは何も知らない子供だった。苦労を知らず、理不尽を知らず、恋を、知らなかった。西の空に広がるオレンジが、じんわりと目に染みた。
 
先日、面接をした会社から内々定の通知が届いた。お祈りメール以外の文面を見るのは初めてだったので、理解するのに時間を要した。10月の内定式を終えれば、就職先がより確かなものになる。
 
「ある意味、大学受験より疲れました。自分の努力でどうこうできるものじゃないから、メンタルがやられます」
 
「まあ、いい経験になったんじゃないか。この先そんなことはいくらでもある」
 
残念ながらね。そう話す教授の横顔が、彼の過ごしてきた年月を表しているような気がした。
 
社会というものは、自分ではどうにもならないくらい理不尽で、運任せなものなのだろうか。就職活動だけでも大変だったのに、社会人になった時のことを考えるとぞっとする。希望が薄まり、不安が腫瘍のようにぷっくりと膨れ上がる。
 
ひとり暮らしを始めた時、実家暮らしの同級生より大人になった気がした。家事をすべて自分でこなしたり、銀行口座を開設したり、水道光熱費の支払いをしたり。たったそれだけで自立できたような気がしたし、バイトで初めて給料をもらった時は、誇らしい気持ちになった。だけどはたちを過ぎても、お酒が飲めるようになっても、わたしはまだ世間知らずな子供のままだ。
 
そんなことを考えているうちに、次々と料理が運ばれてきた。藁焼きの合い盛り、ネギトロ湯葉春巻き、黒毛和牛のポテトサラダ、などなど。どれも少しめずらしいラインナップだ。一口食べたら旨味が口の中いっぱいに広がって、おいしい、これもおいしい、と称賛の言葉がとまらなかった。
 
貴船の川床も素晴らしかったが、鴨川で食べる川床料理もまた、いい。貴船の時は非日常感が強かったが、こちらは日常の中にすっと溶け込み、見慣れた風景を特別なものにしてくれる。まだ風は生ぬるいけれど、心は鴨川のように澄み渡り、さっぱりとした気分だった。
 
そういえば、最近はこんな風に食事を楽しむ機会が少なかった気がする。自炊をする気力もなく、スーパーの惣菜やコンビニ弁当で済ませていた。暑さのせいか食欲もなく、朝食を抜く日も多かった。食べることがだいすきなわたしにとって、それはかなり深刻な状態で、それほど就活のストレスは大きかったのだと痛感する。
 
車折神社に行ったあと、わたしは頑張ることをやめた。興味のない会社にエントリーするのをやめ、嘘をつくことをやめた。相手の望む回答より、自分の話したいことを優先するようにした。もちろんそれだけで状況が好転するわけでもなかったが、以前ほど落ち込むことはなくなった。ただ、合わなかっただけ。縁がなかっただけ。企業がわたしを見定めているように、わたしだって企業を見定めている。業務内容、福利厚生、風通しのよさ、そしてやりがい。そこがうまくマッチしなかっただけのこと。そう、ただそれだけのこと。
 
「で、どんな会社に行くんだ」
 
食べることに夢中になっていたわたしを、教授が本題に引き戻した。そうだった。今日はそのことを、直接伝えたかったのだ。
 
「旅行雑誌を扱っている出版社です。カメラマンは外部に委託することも多いらしいんですけど、京都に詳しいのと、京都の風景を撮ってまわっているっていうのを伝えたら気に入ってくれて」
 
「京都に詳しい」
 
「そこ、復唱しなくていいですから。どうせまだまだだと思ってるんでしょ」
 
「いいや。十分、成長したなと思っているよ」
 
教授はかすかに笑みを浮かべ、グラスを手に持った。
 
「京都という恵まれた土地にいながら、京都のことを知らずに過ごす学生がたくさんいる。そういう人に限って、社会人になってから『ああ、もっといろいろな場所に行っておけばよかった』と後悔するんだ。それを考えたら、十分有意義に過ごせているじゃないか」
 
「まあ、そうかもしれません」
 
教授のおかげですね。そうつけ足そうと思ったけれど、なぜか声にならなかった。
 
「その会社、東京にあるんです。だから卒業するまでに、もっと京都のことを知っておかなきゃなって」
 
なるべく、さらりと言ったつもりだった。そうしないと、心が砕けてしまいそうだった。教授は「そう」と薄味な返事をした。予想していたことだけれど、それがわたしには不満で、少し悲しくなったりもした。
 
関西に、できれば京都にとどまりたい。そう思って、関西を中心に就職活動をしていたのは事実だ。だけど、もっと広い世界も見てみたい。それもわたしの本心だった。そして東京は、わたしの願望を満たすには好条件の土地だった。
 
こうすべきだということは、ずいぶん前から分かっていた。どうあがいたってわたしの一番すきなことは写真を撮ることで、きっと死ぬまで逃れることはできない。すきでいるのを諦めることが、わたしにはできなかった。
 
この選択が正解なのか、今のわたしには分からない。いざ働き始めたらとんでもないブラック企業で、1年経たずに転職しているかもしれない。でも、それでも、今は正しいと信じたい。信じて、ひたすら前に進むしかないのだ。
 
「そういえば、卒論の方は進んでいるのか」
 
唐突に話題を変えられ、え、と声が出た。わたしの反応を見て、教授が顔をしかめる。
 
「9月に中間発表があること、忘れているんじゃないだろうな」
 
「忘れてません、忘れるわけないじゃないですか」
 
嘘だった。頭の隅にはあったものの、ずっと考えないようにしてきた。就活が終わったらやろう。そう思っていたはずなのに、就職先が決まった安心感ですっかりだらけていた。就職するためには大学を卒業しなければいけない。そして大学を卒業するためには、卒業論文を仕上げて単位をそろえなければいけない。単純な話だ。
 
「テーマは決まっているのか」
 
「一応、伊勢物語にしようかなと思ってはいるんです。1回生の時、教授の講義がおもしろかったから」
 
「伊勢物語の、何」
 
「それはその、在原業平の不遇な感じとか、愛、ですかね」
 
記憶の奥底にある伊勢物語のイメージを引っ張り出す。おもしろかったことは覚えているのに、具体的なことを何も言えないのはなぜだろう。教授は「仕方ない」と息を吐いた。
 
「分からないことがあれば連絡しなさい」
 
「ありがとうございます」
 
「その前に、自分できちんと調べること」
 
「ですよね」
 
釜飯が運ばれてくる頃、空は夕日の名残が消え、すっかり夜に沈んでいた。こうして今日も1日が終わる。いつしか蝉の声が聞こえなくなり、日の長さが短くなり、半袖を着る機会が減り、気づけば年が暮れているのだろう。少し先の未来を想像し、さみしさが胸を突いた。
 
 
 
 
 
店を出て、教授と肩を並べて先斗町を歩いた。京都らしさ抜群の路地は、日が沈んでも華が枯れることはなく、提灯の光がぽうっと浮かんでいる。
 
「食べ過ぎました。おなかが苦しいです」
 
「いつものことでしょう」
 
「でも、今日はお祝いだったので。いつも以上に食べました」
 
まんまると膨らんだおなかをさする。ダイエットをしようと意気込んでいたのはいつのことか。忙しさとストレスを言い訳に、すきなものをすきなだけ食べていた。
 
道幅が狭くて、並んで歩いていると手が触れてしまいそうだった。そうなったらいいのに。事故を装って、少しでも近づけたらいいのに。だけどわたしはもう未成年ではないから、そんな幼稚なことを願えない。小さな子供が言うような、混ざり気のない「すき」が伝えられない。大人になったわたしの言葉には、行動には、どうしたって責任が伴って、無意味だとごまかすことはできなくて、だからこそ、何も伝えることができなくなった。
 
先斗町を抜けて、四条大橋に出た。夜風が生ぬるく頬を撫で、先ほどまで見えていた鴨川の、星のようなきらめきがぐんと近く感じた。
 
わたしたちは、しばらく立ちどまって鴨川を眺めた。夜が更けても変わらず鴨川は賑やかで、四条大橋を渡る人の数も減らない。
 
「君が京都を離れたら」
 
ひとりごとのように、教授がつぶやいた。
 
「さみしくなるね」
 
途端に喧騒が遠のいて、視界の端がじんわりとぼやけた。暗い空を背景に、教授の横顔だけが淡く浮かび上がっていた。
 
行ってしまうのは、君の方でしょう。去年、フランソア喫茶室で教授は言った。そんなことがあるわけない。そう思っていたけれど、結局教授の言う通りになってしまった。
 
「わたしもです」
 
かすれた声でそう言って、わたしは弱く微笑んだ。聞こえなくてもいいと思った。
 
わたしは来年、京都を去る。あなたを置いて。あなたを残して。
 

店名 藁焼きと水炊き 葵
住所 京都府京都市中京区河原町通四条上る松本町166
アクセス 京都河原町駅[1A]徒歩2分
TEL 075-223-5670
営業時間 17:00〜0:00
定休日 不定休
URL https://kdpe200.gorp.jp
注意 最新の情報はHP等でご確認ください。

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