4−9 地に任せて「車折神社」
本当にいいんですか。
背後から聞こえる美容師の声はちょっと上ずっていた。この質問はもう三度目だ。はい、いっちゃってください。力強く答えると、彼女は気合いを入れるように肩を回した。
ハサミがわたしの髪をすぅっと挟む。ちょきん、ちょきん。小気味よい音が響くたび、黒髪がはらりと宙を舞う。肩にまとわりついた重みが少しずつ剥がれ、昨日までの自分が薄まっていく。鏡の中のわたしが、まばたき一つせずその様子をじっと見ている。
昨晩も、わたしはこうして鏡を見ていた。胸のあたりまで伸びた髪は右側だけうねり、ヘアアイロンのせいで毛先がちりちりと傷んでいる。顔を伏せるたび前髪が垂れ、わたしの視界を暗くする。みっちゃんの、艶やかな髪を思い出した。金色にオレンジが混ざったミディアムヘアは、彼女によく似合っていた。
鏡の中の自分を睨んで、似合わないな、とつぶやいた。髪型だけではない。嘘をつくのも、媚を売るのも、似合ってない、本当に。
「すっきりしましたね」
すべての行程を終え、美容師が頭の後ろで鏡を広げた。隠れていたうなじがあらわになっている。手で首筋を触ってみると、指先をくすぐる感覚がなくなっていた。1回生の頃よりさらに短い。床を見ると、髪の束が大量に散らばっていた。こんな重たいものがわたしにくっついていたら、頭も痛くなるはずだ。
礼を言い、会計を済ませて外に出た。ぎらぎら光る太陽が、今はわたしを照らすスポットライトのように思える。携帯電話のカメラでめずらしく自撮りをしてみた。短い髪、日焼けどめだけを塗った肌、白いTシャツにジーンズ、歩きやすいスニーカー。イケてる。我ながら、かなりイケてる。思わずみっちゃんに写真を送ると、「え、めっちゃいいじゃん!」とすぐに返事が来た。顔の筋肉がゆるんでいく。
頭が軽くなったら、ついでに体も軽くなった気がして、遠出をしようと思い立った。37℃を超える気温なんて、この衝動を抑える理由にはならない。今日は面接の予定もないし、企業研究をする気もない。
すきなことがしたかった。すきなところに行き、すきなことをして、すきなものを食べよう。嘘も偽りもなく、ありのままの自分でいようと決めた。
カメラを取りに一度マンションへ戻り、携帯電話で行く先を探した。なるべく、普段は行かないところに行きたかった。
車折(くるまざき)神社はどうだろう。芸能人の名前が並ぶ朱色の玉垣を、テレビで見た覚えがある。写真を撮ることもある意味「芸」だ。お参りをすれば、カメラの腕が上達するかもしれない。そう思いながらホームページを見ていたら、「車折神社=芸能神社(芸能の神様)ではありません」という文字が飛び込んできた。
よくよく読んでみると、「車折神社は金運・良縁・学業の神様をまつる神社であり、芸能神社は車折神社の境内(敷地内)にある神社です」ということらしい。行く前に知っておいてよかった。おすすめの参拝手順も載っていたので、しっかり目を通してからマンションを出た。
車折神社の前に降り立つと、木々の枝が鳥居の上まで伸び、真夏の緑が入り口を縁取っていた。葉の一枚一枚がぎらぎらと光を返し、眩しさの中で狛犬の輪郭までも白く溶けそうだ。
暑さのせいか、予想していたより人は少ない。汗を拭いながら参道を進むと、右手側に円錐型の立砂が祀られていた。ホームページでも見た「清めの社」だ。思わず足をとめそうになったが、「参拝手順」という案内板を見て、少し先にある手水舎に向かった。手と口をすすいだあと、再び清めの社の前に立つ。
ここはパワースポットとしても有名で、携帯電話の待ち受けにすると運気がよくなる、ともいわれているそうだ。二礼二拍手一礼。きちんとお参りをしてから、写真を一枚撮る。待ち受けにできるよう、携帯電話でもう一枚撮った。
ホームページによると、車折神社のご祭神は、平安時代後期の儒学者である清原頼業(よりなり)。建立当初は頼業が桜を愛でていたことから「桜の宮」と呼ばれていたが、後嵯峨天皇が嵐山に遊行した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れたことがきっかけで、「車折神社」と称することになったという。
ご利益はいろいろあるが、「約束をたがえないこと」をお守りくださる、という信仰があるらしい。たとえば会社なら売掛金の回収、一般の家庭においてもお金のやりくりがうまく運ぶことや、恋愛においてもさまざまな誓いが守られる、などなど。叶わない願いなんて、ここには存在しないのかもしれない。
本殿で手を合わせ、目を閉じた。蝉の声が遠くで響き、葉の揺れる音が鼓膜をそっと震わせる。風が首筋を撫で、汗ばんだ肌を乾かしていく。呼吸が深まり、波立っていた心が穏やかになっていった。
ゆっくりと、目を開けた。境内には人影がなく、空は青々と澄み渡っている。スーツの息苦しさも、パンプスの痛みも感じない。面接で嘘を並べる必要もなく、メイク崩れを気にする理由もない。そう思うと、胸の奥がふっと軽くなった。
ずらりと並んだ朱塗りの玉垣には、あらゆる有名人の名前が記されていた。テレビでよく見るアイドルや俳優、有名な漫画のキャラクター。境内には清少納言社や水神社もあり、見どころの多さに驚いた。テレビで紹介されている車折神社は、ごく一部に過ぎなかったのだ。
カメラのシャッターを切るたび、こん様のストラップが踊るように揺れる。そうね、こん様。写真を撮りたかったのは、きっとわたしだけじゃないよね。
「特技は何か」と聞かれたら、写真を撮ることだと答えてきた。だけどきっと、わたしの武器はそれだけではない。教授と一緒に京都を巡り、知識を分けてもらい、さまざまな景色を撮ってきた。仕事ではない。誰かに頼まれたわけでもない。だけど続けた。プロではなくても、大きな賞を取れなくても。すきだから、続けた。きっとそれは、誇るべきことだ。
駅のベンチに腰掛け、電車を待ちながら乾いた喉を潤した。平気なつもりでも暑さはやっぱり獰猛で、Tシャツは汗でぐっしょり濡れている。首元に手を伸ばして、あ、と気づいた。そうだ、もう髪は切ったんだから、一つに結ぶ必要はないのだ。
明日になれば、またスーツを着て面接に行くだろう。本音を飲み込むこともあるだろうし、理不尽だと腹を立てるかもしれない。髪を切ってもやっぱりわたしはわたしのままで、いくら神様に祈っても、すぐに現状は変わらない。それでも、目の前の霧がぱっと晴れたような、こざっぱりとした気持ちだった。
目を閉じて、静かに息を吐く。たおやかという言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。
名称 | 車折神社(くるまざきじんじゃ) |
別名 | 宝寿院(寶壽院) 車折大明神 |
主祭神 | 清原頼業(車折明神) |
社格等 | 旧村社 |
創建 | 文治5年(1189年) |
住所 | 京都市右京区嵯峨朝日町23 |
アクセス | 嵐電(京福電車)・車折神社駅 下車すぐ 市バス/京都バス・車折神社前駅 下車すぐ |
TEL | 075-861-0039 |
URL | https://www.kurumazakijinja.or.jp |
参考 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |