4−11 知らえぬ恋は「salon de 1904」
綿菓子のような雲が青空に浮かび、青葉が瑞々しく風に揺られていた。
「内定おめでとう。東京なら、あたしが帰国した時に会えるね」
就職先のことを話すと、みっちゃんは喜びと祝いの言葉をくれた。まだ暑さがゆるまない9月、夏休み期間のせいでキャンパスに人は少ない。わたしたちは顔を合わせて話したい時、自然と大学に集まる。みっちゃんとわたしのマンションのちょうど中間地点が大学ということもあるけれど、お金のないわたしたちに大学のカフェは最高の場所で、いくら長居しても気を遣うことはない。そういう、至極学生らしい理由で、わたしたちはここにいる。
「みっちゃんは、海外のこと決めた?」
「ぼちぼち。カナダに行くのがいいかなって。英語圏だし、アメリカと違ってワーキングホリデーの制度も整ってるし。あと、大自然に触れられそう」
「カナダかぁ。いいね、また写真送って」
「琴子みたいにうまくは撮れないけど」
みっちゃんは金色の髪を耳にかけ直した。やっぱり彼女には、明るい色の髪が似合う。大振りなピアスが上品に揺れ、ネイルストーンがきらりと光った。
「そういや免許取るんだって? 順調?」
「全然だめ。早く取りたいのに、結構時間かかりそう」
就職活動を終えたあと、わたしは運転免許を取るため教習所に通い始めた。実は今まで散々母から「取るなら学生のうちに」と言われていたのだが、何かと理由をつけて先延ばしにしていたのだ。社会人になったら教習所に通う暇もなくなるだろうし、車を使う機会もあるかもしれない。そう納得して申し込んでみたものの、実技どころか筆記でさえもつまずいている。
今まで意識してこなかったが、運転には相当の知識と技術が必要らしい。普段見ている標識もさっぱり分からないし、ただまっすぐ走るだけでも車幅がいまいちつかめず不安だ。みっちゃんは1回生の夏に免許を取得し、帰省するたび両親の車を借りてドライブしているらしい。都会だと車なんて必要ないけどね。彼女は大人の顔をして言う。
「免許取り終わったらさぁ、旅行でも行こうよ。社会人になったら気軽に会えなくなるし」
「行きたい。行こう」
そうだ。卒業したら、みっちゃんとも簡単には会えなくなるのだ。彼女が海外に行くなら、なおさら。
ずっと友だちでいようね。その約束が必ず守られるものではないことを、今のわたしは知っている。これまで出会った何人と、縁が続いているだろう。
小学生の時のクラスメイトが、今何をしているのかわたしは知らない。成人式で会ったあの子とは、結局連絡を取っていない。今、あたりまえのように会っている人たちの中で、10年後も近くにいるのは誰だろう。社会人になればきっと、また新たな縁ができる。出会いと別れを繰り返して、人生は続いていくのだろう。
「でも、そっか。卒業したら京都を離れるんだね。間崎教授、さみしがってるんじゃない?」
わたしは答える代わりに弱く微笑み、アイスティーで口を塞いだ。
さみしくなるね。そう、間崎教授に言われたのは意外だった。意外だったけれど、嬉しかった。わたしは、この人をさみしくさせることができる。そう思ったら、胸の奥で幼い優越感が疼いた。
川床に行ったあと、教授と五山の送り火を見た。きっとこれが最後の送り火になるだろう。そう思いながら見る送り火は、ケーキの最後の一口みたいに切なかった。あのオレンジの炎が、永遠に消えないでほしいと願った。
思えばわたしは四回も、教授と五山の送り火を見たのだ。送り火の意味さえ知らなかったわたしが、幼い頃からの習慣のように、あの炎を四度も写真に収めてきた。同じ風景でも、シャッターを切るわたしの心はどれも違った。初めて見た時の感動、二回目に見た時の心細さ、三度目の幸福、四度目の切なさ。それらはどれも、わたしの記憶を虹色に染め上げている。
来年も、一緒に送り火を見られるだろうか。仕事が休みなら可能かもしれない。だけどそれでも、もうふたりで見ることはないような気がした。わたしたちが毎年一緒に送り火を見ていたのは、わたしが大学生だったからだ。わたしが京都に住んでいて、教授の教え子だったから。卒業すれば、わたしはその理由をふたつとも失うことになる。特別な関係ではない限り、今のようには会えないだろう。
窓の外ではアスファルトに落ちる影が濃く、景色がゆらりと揺れていた。暑さは首を締めるようにまとわりついて、わたしの呼吸を浅くさせる。せっかく就職活動が終わったというのに、うまく息抜きをすることができない。わたしが小学生だったら、暑さも日焼けも気にせず、遊びに出かけていただろうか。大人になるにつれ、できることも増えるけれど、できないことも増えていく。
「あのさぁ」
みっちゃんがアイスコーヒーを置き、慎重な様子で口を開いた。
「何?」
「いや、こんなこと聞くの野暮かもしれないけど」
「うん」
「告白とか、しないの?」
こくはく。わたしは機械のように繰り返し、目を伏せた。アイスティーの氷が溶けて、テーブルがじんわりと濡れている。
「こくはく、は」
「うん」
「しない」
「どうして?」
「だって、非現実的だもん」
わたしはアイスティーをストローでくるくると混ぜた。丸い氷は音も立てず、どんどん小さくなっていく。
「わたしの気持ちって、恋っていうよりあこがれに近いと思うんだ。一応、教授と学生って立場もあるし、年齢だって離れてるし。それに、卒業までに気まずくなりたくないもん」
自分に対する言い訳だということは分かっていた。気持ちに嘘をついて、大切な友人を騙そうとしている。ばかなわたし。臆病者のわたし。これが恋ではないのなら、世の中に愛なんてあるはずがないのに。
成長するにつれて、「すき」という言葉はどんどん重みを増していった。どうやらその意味は、「すき」の対象が近ければ近いほど深くなるものらしい。テレビの向こう側にいる人に対しては、あんなにも軽々しく「すき」と言えるのに。すぐそばにいる人ほど、伝えづらくなっていく。
「そういえば、間崎教授って結婚してる?」
「え?」
みっちゃんの素朴な疑問に、顔を上げた。そんなの、考えたこともなかった。
「いや、してないんじゃないかな。前に風邪引いた時、わざわざわたしにわらび餅買ってこいって言ったくらいだし、たぶんひとり暮らしだし」
「ひとり暮らしだからって結婚してないとは限らなくない? 別居中とか、今はしてなくても昔してたとか」
「でも、それならわたしと出かけるなんて」
そこまで言って、あ、と気づいた。違う、そうじゃない。わたしが、子供として見られているからだ。恋愛対象ではないからこそ、ふたりで出かけることに抵抗がないのだ。
「ごめん、落ち込まないで」
みっちゃんの謝罪に、わたしは小さく首を振った。
「わたしって、教授のこと何も知らなかったんだね」
知っているつもりでいた。少なくとも、他の学生よりは。分かっている、そんな話題を出すような関係性ではないことは。どれだけ親しくなっても、わたしと教授はいつまで経っても学生と大学教授の枠から出ない。
「卒業したら、少しは変わるかな」
わたしが学生じゃなくなったら、この関係は変わるだろうか。いい方向に変わればいいけれど、望む未来は永遠に訪れることのない夢のように思えた。
「出かけようか」
みっちゃんが残りのアイスコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「せっかくなら、おしゃれな店でランチしよ。おなかすいたし」
それが彼女の気遣いなのだと悟って、わたしは「いいね」と同意した。立ち上がろうとしたら、いつもより体が重く感じた。
京都御所を少し西へ行くと、レンガ造りの大きな洋館がある。古い映画に出てきそうなその建物は、京都府庁旧本館だ。存在は知っていたが、実際に足を運ぶのはこれが初めてだった。みっちゃんいわく、ここは国の重要文化財にも指定されていて、曜日限定で自由に見学ができるらしい。
「すごい、レトロだね」
「でしょ。一回来てみたいと思ってたんだ」
中に入ると、すぐ目の前に白い大理石のような階段が現れた。なめらかな手すりと天井まで届く大きな窓。ガラス越しの光が床をやわらかく照らし、まるで宮殿の一角に迷い込んだみたいだ。どこを見ても隙がなく、古さを感じさせないほど凛としている。
わたしは途端に場違いな気がして、自分の服装に視線を落とした。安物のTシャツと着古したジーンズ、去年買った白いサンダル。相変わらずメイクはうまくできないし、短く切った髪はアレンジが難しい。みっちゃんの明るい髪色がうらやましくなった。耳元に光るピアスを、どこで買ったのか知りたくなった。
「こっちだよ」
みっちゃんに案内されたのは、建物の中にある喫茶店だった。入口にある黒い看板には、「salon de 1904」と書かれている。
「1904年っていうのは、京都府庁旧本館が建てられた年なんだって」
「よく知ってるね」
「そりゃ、いろいろ調べてきたから」
こういう場所に関して、みっちゃんは間崎教授並みに詳しいと思う。この店がかわいかった、このイベントが楽しそう、ここのスイーツがおいしかった。流行に疎いわたしにとって、彼女の情報はとても新鮮で興味深い。教授がわたしを連れ出してくれるように、みっちゃんもまた、わたしを知らない世界へ導いてくれる。
赤いカーペットの上を歩くと、自然と背筋が伸びた。大きな観葉植物の前を通り、窓際の席に腰を下ろす。高い天井から吊られた照明に目を奪われていたら、店員が水とメニューを運んできた。
悩んだ末、みっちゃんはミニカレーとドリンクのセットを、わたしはスープセットを頼んだ。この店を運営しているのは京都の人気喫茶店「前田珈琲」だが、スープセットは「salon de 1904」限定らしい。スープとパンはいくつかの種類から選べるそうなので、コーンポタージュとカスクートにした。
注文を終え、改めて店内を見渡した。近くの席では、母と同年代くらいのご婦人がふたり、静かに談笑しながらスープを口に運んでいる。
壁にかけられた絵画は誰の作品だろう。あの時計はどの時代のものだろう。白いカーテンの隙間から差し込む光が、茶色いテーブルに四角い模様を落としている。
「間崎教授がすきそうだなって思ったでしょ」
振り向くと、みっちゃんが頬杖をつきながらわたしを見ていた。
「思った」
「すきなんだねぇ」
わたしは肯定も否定もせず、コップの水を一口飲んだ。
落ち着いた雰囲気の店内で、わたしたちは少し浮いている。成人とはいえまだ学生で、かといってもう子供でもない。年齢を言い訳にできない責任感と、年齢を言い訳にできる幼さを持っているわたしたちは、この空間になじまない。あの人に似合う大人の女性に、どうやったらなれるだろう。
注文した料理が運ばれてきた。コーンスープは濃厚で、冷房慣れした体をほどよくあたためる。スープを口元に運ぶ速度、飲み込む音、声の大きさ。この店は、未熟なわたしを少しだけ大人に近づけてくれる。
「大人って、どうやったらなれるんだろうね」
知識の量は増やせても、価値観が近づいても、年齢差は埋まらない。もう少し早く生まれていたらよかった。別の形で出会えたら、よかった。
「体は成長しても、中身は全然変わらないの。初めて写真を撮った時から何も変わってない。すきなものはすきだし、小さい頃あったいやなこともなかなか忘れられないし」
社会人になったら、わたしはどうなるんだろう。月がどんな形でも月であるように、きっとわたしも、根っこの部分はそのままなんだろう。
「でも、今の大人たちもみんな子供だったんだからさ。間崎教授だって同じように思ってた時期があったかもしれないよ。そう考えたら、なんかほっとしない?」
「そうかな、そうかも。全然想像できないけど」
「それはそう」
わたしたちは顔を見合わせて同時に吹き出した。前にも思ったことだけれど、わたしは教授の学生時代をうまく想像することができない。わたしと同じように大学生活を送ったり、教習所で苦労したり、自分の幼さをもどかしく思ったり。そんな教授の姿は、どうしても思い浮かばないのである。
教授もわたしと同じように、大学から京都にやってきたと言っていた。わたしが京都に来たのは、漠然としたあこがれ、ただそれだけだ。間崎教授は? 教授はどうして、京都にやってきたんですか。どういう学生生活を過ごしていたんですか。そうやって気軽に聞くことができたら、少しは近づくことができるのだろうか。
喫茶店を出たあとは、旧本館のパンフレットを広げながら、建物の中を散策することにした。先ほど見た階段を上り、荘厳な雰囲気の廊下をゆっくりと歩いていく。外観は西洋風なのに、内部にはところどころ和を感じさせる部分もあり、建物全体が一つの芸術品のようだ。中庭には大きな桜の木があり、春には多くの人が集まるのだと、みっちゃんが教えてくれた。
「別の季節にも来たくなるよねぇ」
「そうだね」
わたしはみっちゃんの隣で窓の外を眺めた。まだ日差しは強く、季節が移ろう気配もない。あの青葉が薄紅色の花に変わる頃、わたしは京都を離れているだろう。
「あたしも、もっと琴子といろんなところに行けばよかった。3年以上住んでるのに、知らない場所がたくさんあるや」
「これからでも遅くないよ」
「そっか、そうだよね」
わたしたちは自然に肩を寄せ合い腕を絡めた。友だち同士なら、こんなに簡単に触れ合えるのに。どうして異性だとうまくいかないんだろう。近くにいるのに。出会ってから、もうこんなにも時が経つのに。肩書きや年齢が、わたしたちの邪魔をする。いっそのことわたしが男ならよかった。そうだったら、ずっと隣にいられたのに。
サトウくんのことを思い出した。去年、一度だけ食事に行ったあの男の子。あれから特に進展はなく、顔を合わせれば挨拶をする程度の仲だ。あの子はどんな気持ちでわたしを食事に誘ったのだろう。もしわたしに好意を抱いてくれていたのなら、あの日のわたしはさぞかし失礼だったろう。周囲の目を気にして、間崎教授のことばかり考えて、挙げ句の果てに会話の途中で逃げてしまった。わたしが逆の立場だったら、二度と立ち直れないかもしれない。
でも、それでも。恋愛対象ではない相手からの好意は重たい。その人がわたしのどこを気に入り、わたしとどうなりたいのか分からないから。だから逃げた。得体の知れない感情を向けられることが、おそろしかったからだ。
それを知っているからこそ、わたしは教授に想いを告げられない。わたしがサトウくんをただの同級生としか見ていなかったように、教授にとってのわたしも、きっとただの学生だ。他の人たちよりは親しいかもしれない。けれど、それはあくまで学生という枠の中での話だ。卒業をして頻繁に会うかと言われたら、きっとそうはならないだろう。
旧知事室、正庁、旧議場を順にまわった。旧知事室には大理石とタイルを組み合わせた暖炉があり、実際に知事が使っていた机もそのまま残っている。隣の部屋には、当時の資料が丁寧に並べられていた。
正庁は、折上小組格天井で仕上げられているという。お寺や城にも使われる格式の高い技法らしく、広々とした空間には、背筋が伸びるような気配があった。ここで数多くの公式行事や式典が行われてきたのだと思うと、空気の温度まで少しだけ変わる。
「こういう場所、朝ドラとかでよく見る気がする」
「確かに」
旧本館は映画などの撮影にもよく使われるらしい。また教授に写真を送ろう。そう思いながら、携帯電話を構えた。
旧議場に足を踏み入れると、議員席が半円型に広がっていた。照明や装飾も細やかで、ひとつひとつに時代の気配が宿っている。まるで歴史の中に迷い込んだみたいだ。
わたしたちは、いつだって歴史の上に立っている。普段何気なく歩いている道も、見慣れた景色も、はるか昔から続いてきたものだ。それなのに、能天気なわたしたちは、その重さをほとんど意識しないまま生きている。今ここにある時間もやがて過去になって、記憶の中に溶けていくのだろう。
外に出ると車がひっきりなしに走っていて、遠い過去からぐんと現代に引き戻されたような気がした。さっきみっちゃんと食べたランチも、旧本館の中を歩いたことも、あっという間に過去の出来事になってしまった。
「琴子がどうしたいかだから、正解なんてないと思うけど」
自転車を押しながら、みっちゃんが静かに言った。
「後悔しないようにね」
「……うん」
わたしはあいまいにうなずくことしかできなかった。就職活動が終わっても、決断しなければならないことはまだ残っている。
次に桜が咲く頃、わたしは京都を去る。わたしは何がしたいんだろう。教授と、どうなりたいんだろう。この感情は確かに恋だと、胸を張って言えるのに。伝えなければ、それは愛ではないのだろうか。相手に知られていないこの感情は、愛の形を模した、まがいものに過ぎないのだろうか。
| エリア | #下鴨神社~京都御苑 |
| テーマ | #食事処・カフェ |
| 季節 | #秋 |
| 店名 | salon de 1904 |
| 住所 | 京都市上京区下立売通新町西入薮之内町 京都府庁旧本館内 |
| アクセス | 地下鉄烏丸線「丸太町駅」より徒歩約10分 |
| TEL | 075-414-1444 |
| 営業時間 | 8:00~17:00 |
| 定休日 | なし※年末年始は元旦のみ休み |
| URL | https://www.maedacoffee.com/shopinfo/fucho/ |
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