4−8 にごりに染まぬ「やまもと喫茶」

「よっ」
 
待ち合わせ場所に現れたみっちゃんを見て、思わず携帯電話を落としそうになった。みっちゃん、それ。挨拶より先に声が漏れる。就活に合わせて染めたはずの黒髪は、今や透けるような金色へと変わっていた。毛先だけ淡くオレンジに染まり、前よりおしゃれ度がアップしている。
 
「いいでしょ。最近はやってるらしいよ、こういうやつ」
 
「うん、似合ってるけど、そうじゃなくて」
 
朝から1件面接を済ませてきたわたしは、長い黒髪を一つにまとめ、リクルートスーツにパンプスという地味な格好をしていた。対してみっちゃんは、ノースリーブにデニムパンツという、夏にぴったりのスタイルだ。同じ就活生とは到底思えない。
 
「就活、やめたの」
 
「え?」
 
「まあ、とりあえず店入ろ。暑くてたまんないわ」
 
みっちゃんはわたしの背中を叩き、さっさと先に進んでいった。照りつける太陽光から逃げるように、わたしもあとに続いた。
 
 
 
 
 
白川沿いを歩いていると、「たまごサンド」と書かれた黄色いのぼりが目に入った。レンガ造りの外観に、黄色いストライプのひさし。入り口の前には大きなコーヒーミルが置かれ、「COFFEE」と書かれた丸い看板からはホーローポットが吊られている。まるでガチャガチャのカプセルから出てきたみたいなかわいらしさに、沈んでいた心がきゅんと跳ねた。
 
窓際の席に座り、みっちゃんはレモンスカッシュ、わたしはクリームソーダをそれぞれ注文した。ちょうどお昼時だったので、ホットミックスサンドと焼たまごサンドも頼んだ。
 
窓から見える景色は熱気でゆらりと揺らめいている。暑さは日に日に勢いを増し、熱中症で運ばれた人の数が毎日のようにニュースで流れていた。今朝は「災害級の暑さです。なるべくすずしいところでお過ごしください」とアナウンサーが言っていて、そう言われたってどうすりゃいいのさ、と恨めしく思いながら家を出た。少し前まで、就活は冬にスタートしていたらしい。何がどうしてこの時期になったのか。決定した人を呪いたい。
 
「それで、やめたってどうして?」
 
注文を済ませ、わたしは早速みっちゃんに尋ねた。ついこの間まで就活の愚痴を言い合っていたのに。少し連絡を取らないうちに、なぜそんなことになっているのか。
 
「元々乗り気じゃなかったんだけど、なんか、ばからしくなっちゃって」
 
みっちゃんの爪にはひまわりが咲いていて、この店によくなじんでいた。
 
「個性を見せろって言うくせにさぁ、みんな似たような恰好で、似たようなことばっか答えるじゃん? 真面目に勉強頑張った人より、バイトとかボランティアとかの経験ばっかり評価されるし。大して入りたくもない会社に媚び売って、しかも落とされるしさ。こんないい子ちゃんぶった履歴書と短い面接で、あたしの何が分かるんだよって思ったら、もういらいらしちゃって」
 
「……やめて、どうするの?」
 
「海外に行く」
 
旅行に行くような軽さだった。あまりの軽さに、自分の耳がばかになってしまったんじゃないかと思った。
 
「この間フランスに行ったでしょ? その時のことが忘れられなくて。まだ具体的には決めてないんだけど、ワーホリとかしてみたいなって」
 
知ってる? ワーホリ。そう聞かれ、ぎこちなくうなずいた。なんか、たぶんあれだ。海外で働きながら長期滞在できる、みたいなやつだ。名前だけは知っている。詳しくは知らない。だって、自分には縁がないと思っていたから。そんな選択肢があるはずないと、決めつけていたから。
 
「うちらまだ若いんだしさ、そんなに焦って就職先決めなくてもいいか、って思ったんだよね。働くのは何歳からでもできるんだし。それなら体力あるうちに、世界を見ておきたいなって思ったんだ」
 
逃げてるって思うかもしれないけどさ。そうつけ足して、みっちゃんは笑った。赤い唇からのぞく白い歯が眩しい。歯磨き粉のCMみたいだな、なんて思うわたしは、やっぱり暑さでやられているのかもしれない。
 
「そんなこと、ない」
 
壊れた人形みたいに、ぎこちなく首を振った。
 
「かっこいいよ、みっちゃんは」
 
心から、そう思った。わたしは懸命に、懸命に彼女を称えようとした。だけど今のわたしは、どうしようもなく語彙力が乏しい。言葉は泡みたいに弾けて、うまく喉から出てこない。自分の透明な爪がいやになって、わたしは両手を猫のように丸めた。
 
すきな髪型をして、すきな服装をして、「すき」を貫いているみっちゃん。似合わない髪型で、暑苦しいスーツを着て、絆創膏だらけになりながらパンプスを履いているわたし。
 
本当に、ばかみたいだ。店内の壁はチェック柄で、テーブルの上にはレトロなアンティークが置いてあった。このかわいらしい空間に、スーツ姿のわたしはそぐわない。水玉模様のワンピース、大きな麦わら帽子、リボンのついたサンダル。そんな、めいっぱいのおしゃれをして、この喫茶店に来たかった。
 
「海外に行こうと思う」ではなく、「海外に行く」と言い切ったみっちゃん。一体いつ、それを決断したのだろう。大学で偶然会ったあの時は、もう決めていたのだろうか。わたしに何の相談もないまま。「どう思う?」の一言もないまま。
 
同じ道を、同じ速度で歩いていると思っていた。つらいね、しんどいね、もうやめたい。そうやって愚痴を言い合いながら、同じ色のゴールテープを切るのだと思っていた。就職以外の選択肢があって、みっちゃんがそちらを選ぶなんて、考えもしなかった。
 
だけど、彼女は決めた。決めてしまった。わたしが思う以上に悩んだのかもしれない。迷ったのかもしれない。だけど彼女はそれを見せない。そういう人だということは、わたしが一番よく知っていた。
 
注文した品が運ばれてきた。黄色い皿の上に乗ったサンドイッチと、レトロなグラスに入ったドリンクで、テーブルの上がより一層華やぐ。
 
「わたしは、全然だめだ」
 
焼たまごサンドをつかむと、できたての熱が指の腹に伝わった。
 
「今日の面接だって、本当は行きたくなかったの。仕事内容にも興味なかったし、志望理由だって他の企業で使ったやつをちょっと変えただけだし。でも書類選考は通ったから一応行っとかなきゃ、って。行きたくないなら応募しなきゃいいのにね。そういうの、全然要領よくできない」
 
ふわふわに焼かれたたまごの味が、わたしを優しく甘やかす。就職活動って、受験勉強と全然違う。だってあの時は、努力すれば報われた。フォトコンテストに落選した時とも違う。努力が足りなかったと自分を鼓舞できた。そうじゃなくて、他者に自分の人生を全否定されるような痛み。自分では変えようもない部分を指摘される苦しさ。就活をすればするほど、小さな切り傷が増えていく。
 
「この間一緒に面接した女の子がさ、『特技はダンスです』とか言っていきなり踊り出したの。『授業中に寝ぼけて踊り出しちゃった時もありました』なんて話して、『それはだめだよぉ』なんて注意されてたんだけど。面接官の人たち、すごい笑顔でさ。その時思ったんだ。この子、絶対受かったなって。そういう、真面目だけがよしとされない世界で、今時写真なんて誰でも簡単に撮れちゃうくらい手軽な趣味になっちゃって。どれだけ高価なカメラを持っていても、きれいな写真を撮れたとしても、興味ない人には『へぇ、すごいね』の一言で終わっちゃうみたいで。でもわたしの特技や特徴はこれしかないし、そこを見てくれなかったらもうどうにもならないし、こっちだってわたしに興味持ってくれない会社なんてどうでもいいし、なんて」
 
「たまってんねぇ」
 
みっちゃんが同情するように肩を叩いた。わたしはいらだちを抑え込むように、サンドイッチを口に詰め込んだ。クリームソーダをストローで吸い込み、むりやり喉の奥に流し込む。
 
目の前の道を、高校生くらいの男の子たちが歩いていく。そういえばこの道、名前があったよな、と思い出す。そうだ、確か、「なすありの径」だ。中国の書経に出てくる「必有忍其乃有済(必ず忍ぶこと有れば其れすなわち済す有り)」という一節が、その由来らしい。
 
「『どんな苦しい時でも耐え忍び、力いっぱい努力すれば必ず成し遂げることができる』という意味だよ」
 
そう間崎教授が教えてくれたのは、いつだったっけ。あの時わたしたちは、どこに行こうとしていたんだっけ。記憶はどんどん遠くなって、現実から離れていく。
 
たおやかに生きていきたい。そう願ったはずなのに、わたしはちっともうまくできない。だって、理不尽なことが多すぎる。愛想笑いもとうに尽きて、嘘を並べることにも慣れてしまった。どのくらい我慢すれば報われる? あとどれだけ努力すれば、成し遂げることができる? どれだけ考えても分からない。
 
むかつく、と思った。一生懸命話しているのに、それを鼻であしらう大人はきらいだ。質問されたから答えたのに、興味なさそうな顔をするな。呼んだのはそっちの方なのに、なぜ沈黙を作るのか。受からせる気がないのなら、書類選考の時点で落とせばいいのに。むかつく。むかつく。むかつくのに言い返せない。わたしは弱い。とても、とても弱い。立場だけじゃなくて、心も。
 
「琴子の特技って、写真だけじゃないと思うけど」
 
みっちゃんはさくらんぼをつまんで、おもちゃのように小さく揺らした。
 
「だってさ、今までいろんな写真撮ってきたんでしょ」
 
「うん」
 
「それよそれ」
 
「いや、写真じゃん」
 
「そうじゃなくて。間崎教授と、いろんな場所を巡ってるんでしょ。もちろん写真のクオリティもそうだけど、誇るべきところはそれだけじゃなくてさ、その量だよ」
 
「量?」
 
まぬけな声だった。みっちゃんは「もぉー」ともどかしそうに体を揺らした。
 
「間崎教授にいろんなこと教えてもらったんでしょ。京都に関する知識が増えたんでしょ。それってもう、教授だけの武器じゃなくて琴子の武器でもあるじゃん」
 
「わたしの?」
 
そう、とみっちゃんがさくらんぼを口に含んだ。
 
「あたし、元々神社とかお寺に全然興味なかったんだよ。それでも琴子の写真を見たら行きたくなったんだって。それってすごいことじゃない? だからさ、もっと自信持ちなよ」
 
はっとした。クリームソーダの炭酸がパチパチと弾けて、脳に刺激を与えたみたいだった。
 
わたし、どんな写真が撮りたかったんだっけ。そう、確かあの時だ。1回生の夏、真々庵に行った時、母に向かって言ったんだ。「この写真を見た人が『この場所に行きたい』と、そう思えるような写真を撮りたい」と。みっちゃんには伝わった。だけど、もっと多くの人にそう思ってほしい。 
 
わたしの特技はカメラだけ。それ以外、何もない。そう思っていたけれど、違ったのかもしれない。最近は、自分の中に積もった知識を疎ましく思ったりもしていた。だけど違う。わたしの知識は、全部、間崎教授が与えてくれた。わたしの武器を、もう一つ作ってくれた。写真を撮っているだけだと思っていたけれど、それだけではなかったのかもしれない。
 
 
 
 
 
その後もなんとなく別れづらくて、めずらしくふたりでカラオケに行った。はやりの曲を喉が枯れるまで熱唱し、態度の悪かった面接官の悪口や、最悪だったグループワーク、エントリーシートに書いた嘘を、何時間も話し続けた。それでも愚痴はとまらず、そのまま木屋町の居酒屋に行った。ビールを飲み、刺身の盛り合わせを食べ、レモンサワーを飲み、焼き鳥を何本も食べた。
 
外に出ると、もうすっかり日は沈み、生ぬるい風が汗ばんだ肌をすくいとるように吹いていた。
 
「話、聞いてくれてありがとね」
 
「それはおたがいさま」
 
薄暗闇の中、みっちゃんが笑う。
 
「まあ、なんとかなるよ。死なない限りさ」
 
わたしたちは、どちらからともなく手を繋いだ。縄のようにぴんと伸ばしたり、たゆませたりしながら、ふらふらと木屋町を歩いていく。浴衣姿のカップルや、笑いながら肩を組むサラリーマンたちとすれ違う。木屋町通に連なる店はどこも繁盛していて、店内から聞こえる騒ぎ声が耳に届いた。
 
三条大橋に出た途端、視界がぐんと広くなって、わたしは空を見上げた。雲の隙間から、まんまるな月が地上に光を届けている。
 
間崎教授と、嵐山に行った時のことを思い出した。月光が落ちてくる。そう感じて、わたしは目を細めたのだった。
 
今、わたしの隣に教授はいない。それでもこの光を美しいと思う。いつまでも、この気持ちを忘れないでいたいと思う。わたしたちは自然と足をとめ、息を潜めて月を見ていた。じめっとした夏の空気に、どこからか虫の声が混じって聞こえる。酔っ払いの騒ぎ声が、はるか後方でお囃子のように響いている。
 
「……みっちゃん、あのね」
 
月の模様を目でなぞっていたら、心に沈めていた気持ちが、ゆっくりと喉まで浮かび上がってきた。
 
みっちゃんを見ると、彼女もじっとわたしを見つめ返した。言う必要なんてないかもしれない。わたしの気持ちなんて、わたしの、心なんて。どうでもいいことかもしれない。だけど彼女にだけは、知っておいてほしかった。
 
「わたし、間崎教授がすき」
 
呼吸をするように、言った。「おはよう」とか「おやすみ」のような、ごく自然な挨拶のように口から出てきた。
 
「そっか」
 
みっちゃんはそれだけ言って、淡く微笑んだ。月明かりのような、やさしい笑みだった。
 
「早く、いい報告できるといいね」
 
「うん」
 
わたしたちは繋いだ手にぎゅっと力を込めた。それは祈りのようでもあり、ある種の決意表明でもあった。
 
どれだけ理不尽に感じたって、努力が実らなくたって、望んだものが手に入らなくたって、生きていかなければいけない。未熟だと笑われてもいい。若さゆえの愚かさを抱えて、壁を越えていけると信じたい。
 
夏の夜の月光が、いつまでもわたしたちを照らし続けた。
 

エリア #祇園・東山
テーマ #食事処・カフェ
季節 #夏

店名 やまもと喫茶
住所 京都市東山区石橋町307-2
アクセス バス停「知恩院前」から徒歩すぐ
TEL 075-531-0109
営業時間 7:00〜17:00(LO/16:30)
定休日 火曜休、他不定休有
URL https://www.instagram.com/yamamoto_kissa
注意 最新の情報はHP等でご確認ください。

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