4−18 思はぬ人を「伊根の舟屋」
海鮮かわさきまでは、わたしが運転することになった。
5分ほどの距離とはいえ、知らない道を運転するのは少し緊張する。みっちゃんに道案内をしてもらいながら、なんとか無事に店の駐車場へ車を停めた。
普段は行列ができるほどの人気店らしいが、平日だからかすんなりと席に着くことができた。大きな窓からは海が見える。壁一面の黒板には白い文字で案内が書かれ、その下には海鮮丼や定食の写真がずらりと並んでいた。
少し奮発して、ふたりとも上海鮮丼定食を頼むことにした。刺身は分厚く、エビはぷりぷりだ。わさびがツンと鼻を抜けていく。酢の物も味噌汁もおいしくて、あっという間に完食してしまった。
「おいしかった。さすが、みっちゃんはいいお店知ってるね」
「でしょ。混んでなくてよかったよ」
わたしたちは店を出て、再び車へと乗り込んだ。助手席のみっちゃんが、次の場所をカーナビに入れる。
「じゃ、また運転よろしく」
「オッケー」
わたしは慎重にアクセルを踏み込んだ。だんだんと慣れてきたのか、数分も経つ頃には肩の力が抜けて、景色を楽しむ余裕も出てきた。
「すごいね、ヴェネツィアみたい!」
車を走らせること約30分。みっちゃんが感動したように声を上げた。
わたしたちの目の前には、緑を含んだ明るい色の伊根湾が広がっていた。波打ち際に並ぶ建物は、1階が船のガレージ、2階が居室や物置として使われる、特殊な造りとなっている。遊覧船に乗っている人たちの頭上を、カモメの群れが飛んでいた。
ここは、伊根の舟屋群と呼ばれる場所だ。あらかじめ写真では見ていたものの、やはり実際に目で見ると、海の透明度に驚いた。それに、海と家との境界線がまるでない。山と海に挟まれるように建っている家屋は、自然と寄り添い、共生してきた人々の歴史を伝えているようだった。
車を降りて、伊根湾沿いをゆっくりと歩いた。まるで知らない時代に迷い込んだような、どこか懐かしい風景が広がっている。
見学できる舟屋があったので、料金を支払って中へ入った。昔使われていた漁具や写真が飾られていて、そこにあった暮らしの手触りが、少しだけ近くなる。
「いいところだね」
みっちゃんの言葉に、うん、とうなずいた。
一言で京都と言っても、少し足を延ばせばまるで雰囲気が違う。お寺や神社もいいけれど、自然に囲まれるのもまた、いい。海のにおい、波の音、風の心地よさ。部屋に閉じこもっていては分からないこと。写真を見ただけでは知ることができないもの。そのすべてが、体の内側に少しずつ入ってくる。
「子供の頃はさ、こういう場所のよさがあんまり分かってなかった気がするよ」
伊根湾を眺めながら、みっちゃんが言った。
「修学旅行で京都に来た時も退屈でさ。ガイドさんの説明もちんぷんかんぷんだったし。今思えば、もったいないことしたなぁって」
「わたしも、同じこと思ったよ。あの時真剣に聞いて、ちゃんと興味を持っておけば、もっと楽しく勉強できたのにって」
「大人になったってことなんだよね、きっと」
波の音が耳をくすぐる。時間の流れがゆるくなり、まばたきの速度が遅くなる。
わたしたちは、時間に縛られて生きている。アラームが鳴った時間に起きて、授業に合わせて大学に行って、バイトに行って。社会人になったら、もっと細かく時間を刻まなければいけないかもしれない。
だけど本来、時間というものは、人間が勝手に決めた目盛りでしかないのかもしれない。始まりも終わりもなく、川のようにただ流れていく。そういうとらえどころのないものに、わたしたちが名前をつけ、数字を振って、どうにかつかまえたふりをしているだけなのかもしれない。
伊根を出たあとは、予約した旅館へと向かった。
通されたのは、深い緑の壁と白い障子の対比が鮮やかな和室だった。畳の上には低い机と座布団が向かい合うように置かれ、床の間には掛け軸がかかっている。
窓の向こうには海が広がっていた。空の色を映したような青い水面が、部屋の中の静けさと繋がっているようで、しばらく荷物を下ろすのも忘れて見入ってしまった。
海の幸をふんだんに使った豪華な夕飯を食べ、天橋立と宮津湾を一望できる大浴場で湯に浸かった。見慣れないテレビ番組を見たり、広縁の椅子に座りながら海を眺めたりしていると、時間がどんどん溶けていった。
スマホの通知が鳴った。手に取ると、新着メッセージが届いている。
「間崎教授からだ」
「何だって?」
「さっき天橋立の写真を送ったの。いい写真ですね、だって」
「あっさりしてるね」
みっちゃんの言葉に、わたしは肩をすくめた。教授の感想が淡泊なのはいつものことだ。
「せっかく琴子が写真送ってあげてるんだから、もっと感謝すべきだよね」
「まあ、わたしも教授にいろいろ教えてもらってるし」
「何でそんなに写真がほしいんだろう。全部見たことあるくせにさ」
「写真がすきなんだよ、きっと」
みっちゃんは一瞬何か言いかけて、黙った。湯呑みの緑茶を一口飲み、それから、「あのさ」と慎重に口を開いた。
「前も言ったし、おせっかいだと思うんだけど」
「何?」
「……本当にいいの? このまま卒業して」
わたしは何も答えず、窓の外を見た。
昼間あれだけきらめいていた海は、今は墨で染めたように黒々としている。月が道しるべのように光を落として、その光だけが、生き物のように揺らめいて見えた。
「3回生の時にさ、サトウくんと食事に行ったこと、覚えてる?」
「うん」
みっちゃんがうなずいた。
「それまではね、普通にサトウくんと話せてたの。友だちとまではいかないけど、世間話をする程度には。でも食事に行って、サトウくん、もしかしてわたしのことすきなのかなって思った。告白されたわけでもないのにおこがましいんだけど、そう感じたら、うまく話せなくなっちゃった」
足先が冷えていることに気づいて、わたしは両足の指をすり合わせた。
「この間ね、間崎教授に聞いたの。わたしが卒業しても、京都に来る時は連絡していいかって。そしたら、『もちろん』って言ってくれたの。わたし、嬉しかったんだ」
卒業したら、縁が切れるかもしれない。そんな不安を拭い去るように、教授はわたしに言ってくれた。あたりまえのように答えてくれたことが、わたしの胸を軽くした。
「教授って、元々あんまり人との距離を詰めない人だと思うから。優しそうに見えてもどこか一線を引いているような人で、自分の領域に踏み込ませないっていうか。だからこそ、そんな風に言ってくれたことが嬉しかった。この3年半で、ようやく、そう言ってもらえるようになったの。……それなのに、わたしが余計なことを言って、せっかく築いたこの関係を壊したくない」
みっちゃんは黙ってわたしの話を聞いている。
「サトウくんからの好意に気づいた時、こわいなって思っちゃった。恋愛対象じゃない人に好かれるのって、気持ち悪いなって。人の気持ちをこんな風に思うなんて、わたし、いやな人間なのかな」
「……そんなことないよ」
みっちゃんは小さく首を振った。
「普通、そうだよ。特に女は」
「そうだよね」
わたしはみっちゃんを見て微笑んだ。
「だからわたし、教授に何も言えないの。教授が心を開いてくれたのって、わたしが学生だからだと思うんだ。学生で、写真を撮っていて、教授の話に興味を持っているから。……そこに下心があったと思われたくない。信頼を、汚したくない」
それにね、とわたしは続けた。
「たとえばわたしが想いを伝えて、その気持ちを受け入れるような人だったら、わたし、教授のことをすきになってないと思う。いくら成人しているとはいえ、わたしはまだ学生で、年も離れてて、そんなの、世間的に見たらおかしいでしょう。わたし、わたしのことをすきにならない教授がすき。わたしのことを、受け入れてくれない教授がすきなの。おかしなことを言ってるかもしれないけど、そういう誠実な人だから、すきになったの」
言葉が水分を奪うように、喉がどんどん乾いていった。頭は妙に冴えていて、心は凪のように静かだ。わたしが話しているのは、花が枯れたり、命が尽きたりするのと同じことだ。分かり切ったこと。あたりまえのこと。嘆く必要なんてどこにもない。
「……琴子の気持ちは、分かった」
みっちゃんは、やりきれないように目を伏せた。
「でもさ、そしたら、琴子の気持ちはどこに行くの」
その声は、少し震えていた。
「すきって気持ちは、どこに行っちゃうの」
わたしは答えずに、もう一度窓の外に目をやった。空に浮かぶ星は遠く、昼間は近くに感じた海も、今は暗闇の底で黙り込んでいるようだった。優しく耳をくすぐった波の音も、潮のにおいも、もうどこにも感じない。
誰も、同じ速度で恋に落ちてはくれない。それでも、あなたと同じタイミングで、あなたと同じ速度で、どこまでも落ちていけたらよかった。あなたが、わたしをすきになってくれたら、よかった。
暗闇の中、不完全な月だけがわたしを見ている。涙は出ない。
| 季節 | #秋 |
| 名称 | 伊根町伊根浦 |
| 文化財種別 | 重要伝統的建造物群保存地区 |
| 所在地 | 京都府与謝郡伊根町字亀島、字平田、字日出の各一部 |
| 種別 | 漁村 |
| 選定年月日 | 2005年(平成17年)7月22日 |
| 選定基準 | 伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの |
| アクセス | https://www.ine-kankou.jp/access |
| TEL | 0772-32-0277 |
| URL | https://www.ine-kankou.jp |
| 参考 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |