4−22 恋ひ恋ひて「勝持寺」
車から降りて歩いていくと、「勝持寺」という木札がかけられた門があった。その反対側には、「花の寺」という文字がある。
「西行は知っているね」
そう聞かれ、はい、とうなずいた。武士でありながら、歌人としても名を残した人物だ。
「西行は、この寺で出家したといわれている。彼が植えたと伝わる桜があることから、花の寺と呼ばれているんだよ」
「じゃあ、桜が有名なんですか」
「ああ。だけど、紅葉も素晴らしいんだ」
行こうか、と間崎教授が先に進んだ。
境内に入ると、さまざまな色のもみじがわたしを取り囲んだ。赤や黄色、橙色が空を覆い、足元には敷きもみじが広がっている。葉が重なった部分は空からの光を受けて黒く翳り、そこだけが別の生き物のようにうねって見えた。
流れる小川の両脇には命を終えたようなもみじが積もり、水の流れをゆるめている。わたしはカメラを構えて、この美しさが一番深く映る場所を探した。地面はもみじの影でまだらに黒く染まっている。歩いていると、わたし自身がすっぽりと紅葉に包まれているようだった。
落ち葉を踏み分けて進んでいくと、1本の桜の木があった。剥き出しの枝が、空に向かって鋭く伸びている。
「これが、西行桜」
わたしは枝だけになった桜を見上げた。十輪寺で見たなりひら桜と同じように、薄紅色の花をつけるわけでもなく、さみしい姿のままここにある。
今日は紅葉を見にきたはずなのに。青葉が美しい色に染まる、その鮮やかさに感動したかっただけなのに。目の前の赤や黄色は、終わりに近づいたものが最後に見せる輝きなのだろうか。今まで何も考えず、ただきれいというだけで撮ってきたけれど、ろうそくの火が消える前にふっと強く燃えるように、この色もまた、尽きる前の明るさなのかもしれない。
急に、強い悲しみが襲った。頬を撫でる風がやけに冷たく感じる。わたしは足元に散らばっているもみじを見つめた。これで終わりなのだと思った。ぞっとした。
1回生の時、初めて教授と一緒に紅葉を見た。有名な場所しか知らなかったわたしを、教授はいろいろなところへ連れていってくれた。わたしはどれだけの景色を見ただろう。雲龍院で見たしき紙の景色、岩屋寺で見たイチョウ、去年行った神護寺。どれ一つとして同じものはなかった。
わたしはただ、美しいと思ってそれを見ていた。艶やかな景色を撮ることができて嬉しかった。教授と出かけられることが嬉しかった。今年だって同じはずなのに。目の前に広がるもみじは赤く黄色く色づいて、それを教授と一緒に見て、写真に収めることができる。それはなんて幸せだろう。それなのに、これが最後だ、これで終わりだ、そう考えれば考えるほど、気持ちは暗く沈んでいった。
鐘楼の向こう側にある紅葉が、西日に照らされて光っている。もうすぐ閉門の時間だ。何か言おうとして、でも、何も言えなかった。いつも饒舌な教授も、今は最後の紅葉を目に焼きつけるように黙り込んでいる。わたしは惜しむように写真を撮って、それから、教授と一緒に勝持寺を出た。
車に戻ると、西の空に夕暮れが垂れ込んでいた。こうなると、もうどこにも行くあてがない。今日はありがとうございました、とっても素敵でした。そんな常套句を口にしたら、それきり言葉が詰まってしまった。わたしがわたしである以上、これ以外のことは何も言えない。そう思ったら、自然と目線が下がった。
「何か、軽く食べて帰ろうか」
教授の言葉で、わたしはぱっと顔を上げた。
「何が食べたい」
「……焼肉!」
「全然軽くない」
教授が苦笑した。わたしはにこにこしながら「早く行きましょう」と急かした。まだ別れずに済むのだと思ったら、簡単に気分が上がる。単純な自分にあきれた。
車は道路をゆるやかに進んだ。携帯電話で店を探していると、教授が「善峯寺で」と口を開いた。
「京都の街並みを見た時、金福寺に行った時のことを思い出したよ」
わたしは手をとめて、教授の横顔を見た。「懐かしいな」と教授は笑った。何か言わなければ。「そうですね」なんて、何でもないように笑わなければ。だけど、どうすることもできなかった。教授も、わたしと同じことを考えていたのか。そう思ったら泣きそうになった。
わたしは何も言わずにうつむいて、店を探すふりをした。何を食べますか。そう聞いたら、少し声が震えてしまった。
商業施設の駐車場に車を停め、落ち着いた雰囲気の居酒屋に入った。窓の外では京都の街並みが夜に沈み、地上に星を落としたように、ネオンがちかちかと光っている。
「卒論は無事書けそう?」
「はい」とわたしは答えた。
「十輪寺に行けてよかったです。もう少し書くことが増えそう」
「完成が楽しみだな」
わたしは焼き鳥の串を手に持ったまま、かすかに笑った。
何を話そうか。もっと話したいことは他にあるのに、結局肝心なことは何も言えずに、時間だけが過ぎていく。楽しみにしていた紅葉巡りが、4年続いたこの習慣が、とうとう終わりを迎えてしまった。次はいつ教授に会えるだろう。講義はない。卒論も十分見てもらった。会う理由が、見つからない。
「わたしたちって」と切り出した。貴重な時間を、沈黙で埋めたくなかった。
「本当に、京都と写真のことばっかりですよね」
どんな答えを期待しているのか、わたし自身にも分からなかった。どうしてこんなことを言ったのかさえ分からない。それなのに、途端に動悸がした。皮膚にじんわりと汗が染み出し、呼吸がうまくできなくなった。
「そうだな」
教授はそう言って、ふっと笑った。その瞬間、わたしは、わたしの言葉を教授に否定してほしかったのだと気づいた。そんなことないよ、他にもあるだろう。そういう言葉が、ほしかった。
そのあと、何を話したのかよく覚えていない。気づけばわたしは店を出て、再び車に揺られていた。3年前と同じように、教授はわたしのマンションまで送ってくれた。
駐車場に着いても、わたしは車から降りなかった。ありがとうございました。おつかれさまでした。あの時と同じように、わたしたちに適した言葉を探したけれど、もうどうにも見つからない。
「どうしたんだ」
なかなか降りないわたしを見て、教授はふしぎそうに尋ねた。わたしは両手の指を強く絡めた。
「……わたしが卒業しても連絡していいって、前に言いましたよね」
「ああ」
「その時は」
言葉が詰まった。それを言うのが正しいのか、わたしには分からなかった。だけど、教授に期待している自分がいて、教授がほしい言葉をくれると確信しているわたしがいて、そんなわたしはきっと、ずるい人間なのだろう。
「カメラを、持ってこなくてもいいですか」
――あなたは、写真を撮るんですか。
出会ったばかりの頃、教授はわたしにそう尋ねた。この4年間、わたしたちを繋いでいたのはカメラだった。教授が京都を案内してくれるのはわたしにカメラがあるからで、わたしが写真を撮る人間でなければ、きっと縁は交わらなかっただろう。
カメラがあるから、わたしたちは繋がっていた。一緒にいる理由があった。誰かに関係性を問われても、説明するのは簡単だった。教授は写真がすきだから。だから一緒にいるんだよ。そうやって、堂々と言い訳ができた。
小学生の時、父からカメラをもらった。頑張ろうと思った。大学2回生の時、自分で新しいカメラを買った。誇らしかった。就活を乗り切れたのだってカメラのおかげだ。わたしをわたしと証明するのがこのカメラで、これがなければ、わたしの人生は何もなかった。
だけどカメラがある限り、わたしたちの関係は変わらない。写真を撮りたいからとか桜が咲いたからとか、そういう理由を考えなければ、わたしたちは会うことができない。
恋をすると、人はわがままになるのだろうか。
あなたの幸せの理由が全部わたしであればいいと思うし、わたしといる時だけ笑ってほしいし、なんならわたしがいない時はずっと不幸であれとも思う。わたし以外の人とこうやって過ごさないでほしい、わたし以外の人の写真を褒めてほしくない、明日がずっと来ないでほしい。わたしはあなたの特別ではないのに。特別でないわたしが、こんなわがままを言っていいわけないのに。肝心なことは何も言えない。聞きたいことは何一つ聞けない。だって仕方ない。答えが分かっているんだから。自傷するほど、ばかじゃない。
「……少し、ドライブしようか」
わたしは顔を上げた。教授はわたしの返事を聞かず、ゆっくりと車を発進させた。
もうどこにも行くあてなんかなかった。空は真っ黒で、紅葉も見えない。人工的な街の光だけが、窓の外に滲んでいた。
やがて、教授は鴨川沿いに車を停めた。BGMもない、静かな夜だった。わたしたちはしばらくじっとしていた。声を失ってしまったみたいに、窓の外を眺めていた。
「……君が卒業して、東京に行って、たまに京都に来るとして」
教授の低い声が、ゆっくりと車内に溶け込んだ。わたしは振り向いて教授を見た。
「きっと東京で見た景色や、撮った写真の話をするだろう」
「はい」
「新しく出会った人のことや、どんな仕事をしているかとか、愚痴なんかもこぼしたりして」
「はあ」
「そういう時間を、楽しみにしているんだよ」
教授は前を向いたまま、やわらかく微笑んだ。
「カメラを持ってどこかに出かけてもいいし、ただ食事をするだけでもいいんだよ。だから、いつでも連絡してきなさい」
わたしは何か言おうとした。何か、この空気にふさわしい、わたしたちの関係にふさわしい言葉を探そうとした。だけど何も言えなかった。言葉の代わりに、両目から静かに涙がこぼれた。
教授はそんなわたしに気づくと、困ったように短く息を吐いた。
「ずっと暗い顔をしていると思ったら、そんなことか」
「だって」
わたしは両手で顔を覆った。泣いてはだめだと思うほど、涙は滝のように流れてきた。
「だって、わたし、すきだから」
喉の奥から、すりむいたような声が出た。
「教授と京都を巡る時間が、だいすきだから」
結局わたしは弱虫で、わたしのすべてを打ち明けることはできない。その先にある拒絶が、どうしたって想像できてしまうから。それでも、みっちゃんが言ったように、すきなことはすきと、ただ、伝えておきたかった。今伝えておかないと、永遠に言えないような気がした。少しでもわたしの心を形にして、この人に渡しておきたかった。
涙で視界が滲んで月が見えない。鮮やかなもみじもどこにもない。静かで、優しい夜だった。
「次に行く場所を、考えておかないとね」
そう言ったあなたの声が、長らくわたしの心を噛んでいた。
| 正式名 | 小塩山大原院勝持寺(しょうじじ) |
| 別称 | 花の寺 |
| 山号 | 小塩山(おしおざん) |
| 院号 | 大原院(だいげんいん) |
| 宗派 | 天台宗 |
| 本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
| 創建 | 伝・天武天皇8年(679年) |
| 住所 | 京都市西京区大原野小塩町1194 |
| アクセス | JR向日町 もしくは 阪急東向日下車、阪急バスに乗り換え南春日町下車1.1km |
| 拝観時間 | 9:30~16:30(受付16:00終了) |
| 拝観冥加料 | 大人500円 |
| 拝観休止日 | 毎年2月全日、8月全日、拝観休止(閉門) |
| TEL | 075-331-0601 |
| URL | http://www.shoujiji.jp |
| 参考 | 最新の情報はHP等でご確認ください。 |